び場式Mission Based Learningの特異性
目次
Mission-Based Learning(MBL)とは、社会課題の解決を「ミッション」として学習の中心に据える、21世紀型の教育アプローチです。単なる知識獲得ではなく、実社会に変化をもたらす「実装」までを視野に入れたプロジェクト型学習であり、好奇心・協働・創造性・批判的思考を統合的に鍛えることができるとされています。
ただし、Mission Based Learningを実装するにあたって
①マネジメント・ファシリテーションの難しさ
②評価の難しさ
③知識の体系的習得の難しさ(いわゆる教科的な知識)
といった困難があることについて前回のブログでは触れました。
これらの難しさをどのようにび場式Mission Based Leaningが乗り越えているかを手前味噌ですが解説します。
MBLは、その性質上教師=ファシリテーター/プロジェクトマネージャーとしての資質を高度に求められる。特に「プロジェクトの起動・継続・収束」をどのタイミングで誰と、どのように起こすかが難所である。
これに対し、び場の実践では時間軸を制度から解放し、評価の締切や学期制度といった枠組みを意図的に脱構築している。プロジェクトは「今、この瞬間の関心の強度」を鋭くとらえ、それに寄り添って**“召喚”する形で起動される。これは、Future CenterやFuture Sessionで使われる生成的な問いの場づくり**に近く、タイミングよりも“質的な成熟”が重要視されている。
“質的な成熟”を促進するためにび場では**「ゆらぎの時間」**を意図的に設計している点である。
この“ゆらぎ”とは、認知神経科学で言われるところの**デフォルトモードネットワーク(DMN)**が活性化するような「無目的」「散歩的」「内省的」な時間帯を指す。び場ではこの時間が、思考の再編成や創造的飛躍、ミッションの“発火条件”を育む土壌として重視されている。
子どもたちの関心の強度が閾値を超えたとき、ファシリテーターによって**“召喚”される**。このダイナミクスはFuture Center的発想とも共鳴し、「今この瞬間の成熟度」によって起動されるプロジェクトという、制度型MBLとは異なる発火原理を持つ。
このプロジェクト生成の契機には、provocative(挑発的)な問いやコミュニケーションが意図的に組み込まれている。び場のファシリテーターは、日常のやりとりの中で、子どもたちの本質的な関心やパーソナリティの輪郭を探りながら、「この問いに対してこの子は自分ごととして動き出す」という“揺さぶり”を仕掛けている。
び場では評価を**「しない」**のではなく、「意味づけ」や「次の問い」として内在化している。これは、プロジェクトの成果を外部に提出する形式ではなく、個々の内面における変容の感知=意味化として設計されているとも言える。
このスタンスは、評価を回避するためではなく、プロセスそのものに対する信頼と、AI時代の行動主体性への投資である。つまり、プロジェクトは「達成」ではなく「体験→意味化→次の問い」という流れを重視している。「評価に資源を割かない」ことが実はメンタルセーフティや主体性を守る手段になっており、これはMBLの成果主義的傾向とは一線を画す。
多くのMBLでは「探究型×教科横断」のバランスを探るが、び場はこれを潔く分離している。伝統的な教科学習の体系性を一旦手放す代わりに、「経験を通じた目的的な学び」を重視する。しかも、その知識獲得はAIとの対話に委ねるという発想が核にある。
ここでは、AIが生成する仮説や企画案に対する違和感こそが、子どもの学びの起点であるとされる。このような“AIの仮想知性”と“自分の身体知”との間に生じるズレを調整する力こそが、新しいリテラシーであるという立場は先進的であり、むしろAI時代のMBLの核心的な課題提起になりうる。
さらに特筆すべきは、「子どもにとっての学びの対象」が自分たちのプロジェクトそのものだけでなく、AIと大人(ファシリテーター)との知的対話そのものにもなっているという構造だ。これは、通常のMBLでは見えづらい「知の対話空間」がメタ的に観察可能な設計となっており、AI時代における**「共に考える知の場」のモデル提示**として価値がある。
び場におけるMBL的実践は、あらかじめ設計された知の取得ルートではなく、関係性と揺らぎから即興的に立ち上がる知の劇場として機能している。その構造は、次のように要約できる:
ゆらぎが生む生成的タイミング(DMNの活用)
関心強度に応じたプロジェクトの召喚
意味づけと問いの連鎖による評価の再構成
AIとのズレを通じた新しい知性の発露
知の共同体としての「子ども×大人×AI」の三項関係
これは、ミネルバ大学的なMBLがカリキュラム内部からの進化だとすれば、び場のMBLは制度外からの創発的文化なのかもしれない。