第一回:「好奇心からはじまる学びの歴史──ルソーからデューイ、モンテッソーリまで」
はじめに
好奇心に導かれる探究型学習は、教育史の中で繰り返し注目されてきたテーマです。子どもの「知りたい」という気持ちを起点に学びを展開するという発想は、18世紀のルソーから現代の教育改革まで連綿と続いています。
その間、教育思想や制度には人間観(子ども観)や学び観の違いが内在し、時代ごとに「子どもはどう学ぶのか」「良い学びとは何か」について異なる前提が置かれてきました。このシリーズでは、まずルソーから始まる探究型・好奇心駆動型学習の思想的背景を長期的視野で俯瞰し、各時代の教育思想・制度における人間観と学び観を明確化します。
続いて、認知科学・脳科学・学習科学の最新知見から過去の教育アプローチを検証し、何が認知的に有効で何が機能不全だったかを批判的に考察します。特に「好奇心」という動機づけメカニズムに焦点を当て、教育学・学習科学・神経科学が明らかにした最新の理解を紹介します。それを踏まえ、現代の探究型学習(日本の「総合的探究の時間」など)がその知見をどこまで活かしているかを考えてみたいと思います。
ルソーと近代教育の幕開け:子どもの自然と好奇心への信頼
18世紀の哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、著書『エミール』(1762年)で近代的な子ども中心教育の基礎を築きました。ルソーは子どもを「本来善であり、自然な発達のリズムを持つ存在」と捉え、大人の偏った価値観や知識を押し付けずに、子どもの自主性と興味を尊重すべきだと説きました。彼は「子どもは最初落ち着きがないが、やがて好奇心を持つようになる。
この正しく導かれた好奇心こそが、その年齢における発達の手段である」と述べ、好奇心が子どもの学びと成長の原動力であると強調しています。ルソーにとって好奇心は生得的な欲求であり、「人間の心に本来備わる原理」でした。例えばエミールが学ぶ内容も、子ども自身が必要を感じ「知りたい」と思うことに限るべきで、不自然な詰め込みは避けるよう主張しました。
こうしたルソーの人間観は、子ども=主体的で善良な学習者という見方です。教師は支配者ではなく「自然の助手」として子どもの発見を手伝う存在にとどまります。彼は大人が子どもの好奇心を無闇に煽ることには慎重で、「子どもの好奇心は刺激するより満たす方がはるかに安全である」と語りました。子どもが何かを尋ねてきたら、隠したり嘘をついたりせず簡潔かつ真実に答えるべきで、変に興味を煽らない方がよいという指導観も示しています。このようにルソーは、子どもの内発的な好奇心を信頼しつつ、それを自然に伸ばす教育を提唱しました。これが「好奇心駆動型学習」の思想的源流と言えます。
19~20世紀前半:進歩主義教育における探究と児童中心主義
ルソーの影響を受け、19世紀にはペスタロッチやフレーベルらが子どもの主体性や直観的な学びを重視する教育実践を展開しました。ペスタロッチは貧しい子どもたちに対し「生活から学ぶ」体験学習を行い、直観教授(物事を子ども自身に体験・観察させて学ばせる)を重視しました。フレーベルは世界初の幼稚園を開設し、遊びや歌を通じて子どもの自己表現と探究心を育むことを目指しました。これらの教育者は、子どもには本来学びたがる意欲と能力が備わっているとの人間観に立ち、教師は子どもの興味を引き出し適切な環境を整える役割を果たすべきだと考えたのです。
20世紀初頭に花開いた進歩主義教育は、探究型・経験重視の学習を学校教育に取り入れました。その代表がアメリカの哲学者・教育学者ジョン・デューイです。デューイは「学校と社会」「子どもの経験」への接続を強調し、「問題解決学習」や「プロジェクト学習」の理念を打ち出しました。彼の教育哲学では「教育とは生活そのものであり、経験の継続的再構成である」とされます。デューイは学習者の「探究心 (inquisitiveness) と興味関心」を学びの出発点に据え、「生徒に何かを教えるのではなく生徒が自ら行える課題を与えよ。思考が要求される行為をさせれば、学習は自然に起こる」と述べています。これは、知識の暗記よりも自ら考え発見する過程を重視する姿勢です。
デューイの人間観は、子ども=能動的な経験者であり、教育のゴールは「未来のために準備させる」でなく「現在進行形の成長を促す」ことでした。彼は好奇心・探究心を知的成長の原動力と見なし、「本当に考える人は失敗からも学ぶ。心からの無知はしばしば謙虚さと好奇心、偏見のなさを伴うが、型にはまった知識は新しいアイデアを拒む傲慢さを生む」と述べています。この言葉は、型通りの詰め込み教育で得た表面的知識より、無知を自覚して問い続ける態度(=好奇心とオープンマインド)の方が学びには有益だ、という意味です。デューイら進歩主義者により、「学習とは能動的な問題解決であり、教師はその過程をガイドする」**という探究型学習の原型が築かれました。
また同時期、マリア・モンテッソーリも児童中心の教育法を確立しました。モンテッソーリは「教育の目標は子どもの内なる学びたいという自然の欲求を引き出すこと」と語り、子ども自ら環境を探究できる教室を設計しました。彼女の教室では子どもは自分で教具を選び、繰り返し操作しながら興味を持ったことをとことん追求します。モンテッソーリ教育の柱は「子どもには生来学びへの欲求があり、適切な環境と自由が与えられれば自律的に集中して学び始める」という人間観です。実際、彼女の観察では子どもが自発的活動に深く没頭し「集中現象」と呼ばれる状態になることが報告されています。これは現代で言うフロー状態にも似ており、好奇心による内発的動機づけが最大限に発揮された例と言えるでしょう。
次回予告
次回は、教育における**「行動主義」と「構成主義」の対立と融合に迫ります。
なぜ一時期、探究や好奇心が軽視され、「ドリル学習」が主流となったのか?
そして、どうしてそれが再び「構成する学び」へと転換していったのか?
ピアジェ、ヴィゴツキー、ブルーナーの理論を通じて、探究学習の再興を追います。