探求学習についての考察 vol.4
目次
教育の効果を論じる上で、認知科学・脳科学の知見は重要な示唆を与えます。歴史的に採用されてきた教育アプローチについて、最新の科学の視点からうまく機能した点と問題だった点を整理します。
ルソーやデューイらが強調した**「生活や身近な経験に根ざした学び」は、現代の学習科学でも効果的とされています。人は新知識を既有知識と関連づけて記憶しますが、身近で意味ある文脈と結びついた情報は理解しやすく忘れにくいことが研究で分かっています。
例えばデューイ流の体験学習やプロジェクト学習は、単なる抽象講義より知識の定着と転移が起こりやすいことがメタ分析でも示唆されています。大学理系科目の225研究を分析したメタ研究では、学生が受動的講義よりも能動的に学ぶ授業の方がテスト成績が向上し、単位不履修率も低減したと報告されています。つまりアクティブ・ラーニングの優位性**が統計的に確認されており、過去の進歩主義教育が直感的に目指した方向は、科学的にも正しかったことが支持されます。
ヴィゴツキーに端を発する協働的探究は、現代でもピアラーニングや知識構築共同体の考え方に受け継がれています。他者と対話しながら問題解決する学習は、個人学習に比べ理解が深まるケースが多く報告されています。お互いの考えを説明・質問・調整することで誤解が正され、新たな発想も生まれるためです。
例えば「教え合い」による学習(ピア・インストラクション)は、学習者同士の説明を通じて深い理解を促進する効果が実験的に確認されています。歴史的にもソクラテスの対話法や19世紀ランカスター方式の助教法など、対話による学びは繰り返し現れてきた手法であり、現代科学はその有効性を理論的に裏付けています。
一見探究型とは逆のようですが、伝統的教育が取り入れていた基本的技能の反復練習やすぐれたフィードバックは認知心理学的に有効な側面もありました。
例えば九九暗唱や漢字書き取りといった訓練は、想起練習(テスト効果)や熟達によるワーキングメモリ負荷の軽減という利点があり、複雑な探究課題に取り組む際の基盤を築きます。ただし過度な機械的ドリルは動機づけを下げるリスクがあるため、意味づけやゲーム性を持たせる工夫が重要です。伝統的授業でも、良い教師は反復に工夫(歌や競争など)を入れて興味を繋ぎ留めていました。これは現代で言う認知的徒弟制モデル(熟達者の反復練習と内省)に通じるものです。また行動主義的手法で重視された即時フィードバックも、誤りの定着を防ぎ学習を強化する上で効果的であることが分かっています。
要は、「発見学習 vs. 詰め込み」の二項対立ではなく、基礎技能の習得と探究的応用を循環させる設計が望ましいということであり、過去の教育でも部分的にはそれが行われていたのです。
モンテッソーリ教育やサマーヒル・スクール(A.S.ニイルの自由学校)など、一部の実践は極限まで子どもの内発的興味に委ねた学習を試みました。これらでは遊びと探究の区別がない学びが展開し、子どもが目を輝かせて取り組む様子が数多く記録されています。興味深いことに、現代の自己決定理論(デシとライアン)でも、自主性(オートノミー)・有能感・関係性が満たされると内発的動機づけが高まるとされます。自由学校やモンテッソーリ環境はまさに自主性を最大化し、子どもが自分のペースで有能感を得られる仕組みでした。そうした環境で育った子どもが長期的に創造性や自己主張の強さで評価されるとの報告もあり、内発的動機を核にした学習環境は教育成果につながりうることが示唆されています。
純粋な発見学習や完全な自由放任では、初心者が重要な知識に辿り着けず非効率になる危険が指摘されています。認知負荷理論で著名なSwellerらの研究によると、「最低限の指導しか行わない教授法は、初心者に過大な認知的負荷を与え非効率である」ことが示されています。
Kirschner, Sweller, Clark (2006)の有名な論文は、構成主義的アプローチ(PBLや発見学習など)を批判し、「学習者の前提知識が不十分な段階では、ある程度の明示的指導が必要」と結論付けました。例えば小学生に科学者さながらの自由探究をさせても、多くは手探りで時間を浪費し誤概念を形成するだけ、という現象が起こりえます。過去のオープンエデュケーションの挫折や、一部の進歩主義実験校の混乱は、このガイダンス欠如の弊害と捉えられます。従って現代では「ガイド付き探究 (Guided Discovery)」が推奨され、教師は単なる放任ではなく適時にヒントや方向付けを与える役割が重要とされています。
20世紀中葉以降、テスト至上主義や偏差値競争が子どもの学びを強く規定するようになりました。テストの点数や成績といった外発的報酬は一時的な努力を引き出しますが、内発的な知的好奇心を損なう恐れがあります。デシ (Edward Deci) の古典的実験(1970年代)では、もともと面白がって解いていたパズルに賞金をかけると、その後賞がなくなった途端に被験者の自発的取り組み時間が減少する、つまり外的報酬が内発的意欲を「アンダーマイン(掘り崩す)」現象が報告されました。
学校においても、過度のテスト練習や競争的評価は、「学ぶこと自体の面白さ」を見失わせる危険があります。実際、「テストに出ないからこの課題はやらなくていい」「これやったら点数くれますか?」といった発言に象徴されるように、評価ばかり強調する教育では生徒の好奇心が萎縮しがちです。行動主義的管理(ごほうびシールやランキング)も短期的には有効でも、長期的には知的探究心の希薄化につながる場合があります。従って、内発的動機と外発的動機のバランスをとり、評価も学習者のマスタリー(熟達)や成長を認める形にすることが大事だと分かってきました。
問題解決学習やプロジェクト学習では、指導者の力量次第で内容理解が浅くなる危険もあります。一つのテーマに熱中するあまり他の基礎事項がおろそかになったり、逆に広く浅く手を付けただけで終わったりすることがあります。過去の例では、学習者の自主性に任せすぎて「ただ調べてまとめただけ」の発表会になり、科学的な掘り下げやスキル習得に結びつかない事例がありました。これに対し認知科学者のMayerは「発見させたい内容の本質は、結局教師がきちんと教える必要がある」と主張します。
つまり指導目標(学ぶべき知識・技能)と探究活動を噛み合わせる設計がないと、探究学習は単なるお遊びか事実集めで終わってしまうのです。実際、日本の総合的学習の初期にも「調べ学習でコピー&ペースト発表になっている」という批判がありました。これを避けるには、カリキュラム設計上の整合性(探究テーマと教科知識のリンク、課題の良質さ)や振り返りプロセス**の組み込みが重要です。教師がゴールを意識しつつも答えを与えず問い返す、といった高いファシリテーション能力が求められ、これは教員研修上の課題ともなっています。
30人〜40人の学級で全員が各自の興味に沿って探究するのは運用が難しく、どうしても折衷的にならざるを得ません。歴史的にも大規模な公教育の中で進歩主義教育を完全実施することは難しく、結局は教科カリキュラムに回収された例が多いです。米国でも進歩主義教育は一時主流になりましたが、第二次大戦後のバック・トゥ・ベーシックス運動で「基礎学力低下」が問題視され後退しましたtimetoast.com。
日本でも「ゆとり教育」の中で総合的学習が増えた際、「知識の習得がおろそかになった」との批判から揺り戻しが起きました。つまり探究型学習と体系的知識習得の両立は今も課題であり、教育システム全体として舵取りが難しい問題です。認知科学的には、初心者にはまず基本知識のスキーマ形成が重要で、それなくして高度な探究は成り立ちません。ゆえに現代では「知識重視 vs 探究重視」の二項対立ではなく、知識を探究で使いながら定着させる統合的アプローチ(例えば探究前後に明示的な知識指導を行うなど)が提案されています。
以上、過去の教育実践を振り返ると、好奇心や主体性を活かす工夫は多くの恩恵をもたらした一方、放任しすぎることや外発的管理に偏ることの弊害も明らかになりました。教育は内発的動機づけ(好奇心)と構造化された指導のバランスが大切であり、その適切なデザインが学習効果を左右します。
この点を踏まえ、次章では特に「好奇心」という動機づけメカニズムに関する最新知見を詳しく見ていきます。