AI時代における「人間らしさ」の未来を、学問領域を横断して探るレポート vol.2
第2章:文化人類学 ――「人間らしさ」とは文化が編んできた仮の姿かもしれない
文化人類学とは何か?
文化人類学(cultural anthropology)は、「人間とは何か?」という問いを、文化の多様性と変化という視点から探究する学問です。
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世界各地の慣習・宗教・言語・社会構造などをフィールドワークによって観察・記述し、
“当たり前”を疑うまなざしを持ち続けてきました。 -
特定の文化圏だけに通じる考え方を「普遍」と誤解することを戒め、
人間性は生物学的に決まっているのではなく、文化によって形づくられると主張します。
文化人類学の根底には、「人間とは本質ではなく、意味を生きる存在である」という思想があります。
だからこそ、「人間性とは何か?」という問いに対して、常に複数の答えがあることを認め、社会や時代とともにその定義も変わっていくと捉えるのです。
人間性は「自然」ではなく「文化」の所産である
文化人類学者は、狩猟採集民から現代都市生活者まで、あらゆる人間社会を調査し、次のようなことを明らかにしてきました。
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家族の形態、性別の役割、死生観、道徳観念――これらは決して普遍的なものではなく、文化によって多様である。
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「母親が育児するのは自然だ」「善悪の基準は絶対だ」といった私たちの“常識”も、
じつは歴史的・社会的な文脈の中で形成された“文化的装置”にすぎません。
こうした観点に立てば、人間性とはあらかじめ備わっている本質ではなく、社会の中で織り上げられ、更新され続けている「仮の構築物」だと言えます。
知性がコモディティ化された社会において文化人類学はどう見るか?
文化人類学の視点から見ると、AIによる知性の外部化・共有化は、かつての火・道具・言語・印刷・インターネットと同じく、**人間の文化を根底から変える「環境=技術」のひとつです。
この未来において、文化人類学が問い直すのは次のようなことです:
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「人間らしさ」とされていたものは、AIによって再定義されるのではないか?
(例:知識の記憶ではなく、問いを立てる感性こそが「らしさ」になる) -
新しい社会の中で、AIはどのような“文化的存在”として位置づけられるのか?
(例:人格を持つ相手として扱うか、単なる道具として扱うか) -
人間同士の関係性や儀礼が、AIとの共存によってどう変化するのか?
(例:教育・ケア・対話のあり方はどう変わるか)
び場の実践は、文化人類学的に見れば「人間らしさを問い続ける場」
文化人類学的視点に立つと、「び場」は次のような価値を持つ実践の場だと見えてきます。
① 固定された“正解の人間像”を再生産しない
び場は、既存の学校文化に内在する「良い子像」や「成績中心主義」といった文化コードをそのまま継承しません。
代わりに、子どもたちがそれぞれの表現様式・価値観・関係の築き方を模索し、**“自分たちで文化をつくる場”**として機能しています。
② 子どもたちが「意味を編む存在」として育つ
正解や効率を求めるのではなく、問いや偶然から立ち上がる意味を受け入れるあり方(例:探究・プロジェクト・対話)を通して、
び場では、子どもたちがまさに**「文化的に生きる人間」として育っている**のです。
③ 大人も文化の“担い手”として再構築される
び場では、教師やファシリテーターが「答えを与える存在」ではなく、
文化を共につくるパートナーとして子どもと関わる構造が築かれています。
結び:文化人類学が求める「人間らしさ」とは、変わり続けることを受け入れる力
AI時代においても、文化人類学が強調するのは次のような人間観です:
「人間とは、意味と関係を編み続ける存在であり、変化を受け入れる柔らかさこそが“人間らしさ”である」
そしてび場の実践は、まさにその**変化と生成を受け入れる“文化の現場”**として存在しています。
知性が均一化されていく時代だからこそ、文化を生きる力、文化を育てる力、そして文化を問い直す力が、人間性の核心として再浮上するのです。