第7章:サイバネティクスとサイボーグ ――人間と機械の境界はどこまで曖昧になるのか?
過去の理解:人間=情報と制御のネットワーク
サイバネティクス(cybernetics)は、1940〜60年代にかけてノーバート・ウィーナーらによって発展した、人間と機械の共通性をモデル化する学問です。
その中心概念は以下の通りです:
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「生物も機械も、情報を受け取り、制御し、出力するシステムである」
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たとえば、恒温動物の体温調整や、飛行機のオートパイロットはどちらも「フィードバック制御」によって成立しています。
このような考え方は、人間の行動や思考を制御系(コントロール・システム)として理解しようとするものであり、「人間の知性や意思も、情報処理や調整の結果にすぎないのでは?」という問いを投げかけました。
また、1960年にはマンフレッド・クラインとナサニエル・クラインによって「サイボーグ(cyborg)」という言葉が提唱されました。
当初は宇宙空間など極限環境に適応するために、人間の身体を機械と融合させる構想でした。
こうして、「人間とは生身の身体+情報制御システム」であり、「人間性は機械と連続的なスペクトルにある」という視点が現れ始めたのです。
AI時代の再定義:人間=機械との“動的融合体”としての存在
今日、サイバネティクス的な発想は、日常生活に深く浸透した現実となっています。
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スマートフォン、スマートウォッチ、音声アシスタントは、すでに人間の判断や記憶を部分的に代替・補完しています。
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神経インターフェース、視覚・聴覚の補助デバイス、義手・義足のロボティクスは、「サイボーグ的人間」を現実のものにしています。
このような状況で、サイバネティクスの視点から「人間性」を再定義するとすれば、次のようになるでしょう:
① 境界の曖昧化:どこまでが“私”なのか?
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スマホに思考を支えられ、Googleカレンダーに行動を決められる――それでもそれは「自分自身」か?
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ブレインマシンインターフェースを通じてAIと接続されたとき、「自分が思った」のか「AIが思わせた」のかを区別できるか?
これらの問いは、「人間性とは“生物的存在”に帰着するものではなく、情報的・関係的存在としての“私”をどう定義するかに関わる」と示唆します。
② 技術的身体の拡張:進化の次段階としての“人間”
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サイボーグ的補助具は「障害の補填」にとどまらず、「健常者以上の能力の実現」へと進化しています(例:視覚強化、記憶補助)。
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それにより、人間の身体性そのものが“流動化・選択化”する時代が訪れています。
このように、「自然な人間」というイメージは次第に溶解し、「選び取られた機械的構成をもった存在」としての人間像が浮上してきます。
③ 全体知性としての人間=AIシステムの中の“ノード”という捉え方
AIが都市のインフラ、教育、医療、金融などあらゆる領域に組み込まれた社会は、一種の巨大なサイバネティック・ネットワーク社会とも言えます。
その中で人間は、「個としての意志」よりも、「ネットワークの中での役割」や「情報の流れにおける影響」によって定義されるようになるかもしれません。
つまり、人間性とは“独立した自律性”ではなく、“分散的な協調性”に基づくように変容する可能性があるのです。
小結:人間=変化し続ける統合体としての「動的存在」
サイバネティクスとサイボーグ概念は、私たちに以下のような認識転換を迫ります:
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人間性とは固定された「本質」ではなく、技術と共進化する“構成的プロセス”である。
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生物と機械の境界はもはや「線」ではなく「グラデーション」であり、私たちはその中を揺らぎながら生きる存在である。
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「人間らしさ」を守るとは、“変わらないこと”を守るのではなく、“変わり続ける自己”をいかに誠実に保つかにかかっている。
こうした視点は、ポストヒューマニズムの思想とも響き合います。
そこで次章では、その思想を軸に、「そもそも“人間”であることはゴールなのか?」というより根源的な問いへと踏み込みます。